「まおゆう」を読んだ

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」を読んだ。

最初の2スレくらいは読んでいて悲しかった。「魔王モノ」も「ファンタジー世界に現代的価値観(や政治学や経済学や君主論)を持っていって語らせる」というテーマもどっちも個人的にツボであって、なのにこんなにテキトーな会話文体でへらへら書き飛ばしてしまうのは勿体ない、と思った。

そもそもの大問題として「魔王はなぜ勇者を欲するのか」の理由付けが希薄で、なおかつ「勇者が魔王に惹かれるのは魔王が勇者を熱烈に口説くため」であるという理由付けがされているために、「タイトルからして魔王が勇者を口説き落とさねば始まらぬ」という前提を満たすためになんとか頑張っている感が否めなかった。

しかしながら、3スレめを超えたあたりから10スレめあたりまではドラマ展開的に息継ぐ暇がなく、一気にに読まされてしまった。ここまでの話の組み立ては端的に言って素晴らしいの一語に尽きる。
ネットの感想を読むに後半ほど素晴らしい、というような意見も見たが、個人的感慨としては中盤が一番輝いている。なにが良いかというと、劇中の君主たちが述べる演説と、奏楽子弟の奏でる詩が良い。単純に散文としてそれらは良かった。ドラマ的には火竜公女の身の振り方が大変気に入った。後半はむしろ話をクローズするための儀式的なものに見えた。

まあ、感想を述べていても仕様がない。
私としては、「これが何であるか」を述べたい。

ツイッターもでつぶやいたのだが、15年前にこのプロットで、なおかつきちんと小説の体を成していたなら、富士見や電撃といったライトノベルレーベルの新人賞で入賞は固かったのは間違いない。
個人的には「猫目狩り」とか「7人の武器屋」に賞をやるくらいだったら喜んでこっちに賞を授けたい。

しかしながら、実際問題としてこれは小説という体裁では世に出なかったので、その仮定にはさほど意味はない。これがこのまま髪に印刷されて500円で買わされたら私は怒る。私がこれによって一番つよく考えさせられたことは、「表現とは、表現を世に出すとはどういうことだろうか」ということだった。

この話の中で、すべての登場人物には固有名詞が与えられていない。まあ、実際には「一般名詞の固有名詞的用法」によって「名前」が与えられているけれど、たとえば「辣腕会計」にはスティーブとかジョンストンとかの名前はついていない。これに登場するすべてのキャラクターの名前は名前であると同時にその立ち位置や役職の表現系であり、これを象徴とするように、すべての登場要素は高度に記号化されている。これが、「まおゆう」の語り方の特徴であった。

おそらく1〜2スレッドめあたりでは自覚無く使用されていた簡易な

話者「会話内容」

の連続で表現される文章、いわゆる「地の文」がないかたちでの表現はスレッドを重ねるにつれてて洗練されてゆき、序盤では

メイド妹 じわぁ

であるとか、中盤以降では

火竜大公「これで肩の荷が下りますかな」ぼうっ

といったような、擬態語との不思議な組み合わせによる表現に昇華されていった。
(火竜大公の「ぼうっ」はそれを説明する文は全くないのに、「竜族が鼻から火を噴いている」を読み取ることのできる素晴らしい表現だった)

これは、@machiko22氏のTogetter - 「まおゆう」って何が面白いの?の中の「この文体ってシミュゲっていうよりギャルゲのパロディなのね。」という指摘がなされているように、この表現法はこれによって初めて世に出たというより、たしかにビジュアル的制約のあるコンピュータゲームにおいてはこの手の表現方法はかねてから目にするものであったが、「ゲーム内文章」ではなく最初から最後まで散文のみで表現されるメディアの中においての表現としては、やはり画期的なものであったような気がする。

当初、このような表現が採用されていたのは、気楽に文章を書くための成り行きだったのかもしれないが、中盤以降、筆者が文体を維持するために意図的に「地の文」を排していたことについて疑う余地はない。結果、これは全編にわたり、きわめて記号化、抽象化度の高いストーリーテリングがなされており、結果として文章あたりの情報量がきわめて高くなって、読者に濃密な読書体験を与えていた。
実際のところ、文章あたりの情報量は実際には多くないが、「記号化のキーワード」を散りばめることで、読者が脳内に勝手に展開する情報量はいわゆる「まっとうな小説」に比べて決して遜色のないものであったように感じた。

だいぶトイレに行きたくなってきたので強引に纏める。

  1. 一般名詞の固有名詞化によって高度に記号化され、なおかつ多くを「借景」に依るキャラクターたち
  2. 「地の文」を極力排した、発話を主体としたストーリーテリング
  3. もとが2chのVIPスレへの投稿であるという共有性の高さ

この3点が「まおゆう」の特徴であると思う。
(経済学やら自由がどうとかいうのはこれの特徴ではない。ドラマの特徴付けギミックのひとつにすぎない)

難しいのは、じゃあこれに地の文をおぎなって「小説の体裁」にしたらそれは価値あるものになるか、ということである。コミカライズは比較的容易である。すでにアニメイテッドの作品も存在するようだが、表現の転化としてはそれは比較的創造しやすい方法である。

これが「荒削り」「未完成」だからこそ、この「プロット」を補って派生していく現代的表現があるのではないかという予感がするが、今の自分にはその姿は見えない。