ベーシックインカムは貧しさを駆逐するか

なぜ、「貧しさ」というものがあるのか。
ここでいう「貧しさ」とは、単におカネがなくてモノが買えない、ということではない。ある個人について、「富」が不足することにより、生存に支障をきたす可能性のある事態、と定義しておく。
ここでいう「富」とは、生きるために必要なもろもろのもの、空間、栄養源、安全、生存実感、社会インフラ(を利用する権利)といったもの全般をさして使う。一般的には、おカネがあればそれらが手に入るので、これらが不足しているということは、往々にしておカネが不足しているということを意味する。しかし、「富」=「おカネ」ではないことにだけ注意して欲しい。

人類は、有史以来爆発的な加速度で「富」の生産能力を増やしてきた。
人類の歴史は、「貧しさ」を遠ざけるための戦いの歴史に他ならない。しかし、1万年にもわたる必死の戦いを続けてきたにもかかわらず、どうしていまだに貧しさを地球上から駆逐できないでいるのだろうか。

地球上にはすでにじゅうぶんな「富」が存在するのではないか。一部の「強い人たち」が、これを独占し、弱者から搾取しているために、「富」の偏在が起こり、本来ならじゅうぶんにあるはずの「富」の不足がおきて、貧しい人たちを生んでいるのではないか、という考え方をする人がある。
しかし、私はこの考えには、ひとつ考え足りない点があると思う。

それは、人類は、その「富を生産する力」を増やすと同時に、「ひとりが生きていくために必要な富」の基準を引き上げ続けてきたし、それよりもまして、人類の数もまた、有史以来爆発的な加速度で増やしてきたということだ。
人類もまた生物であるから、「富」のあるときは、「富」のあるかぎり殖えよとその遺伝子に刻まれているし、実際にそうしてきた。人類の増加ポテンシャルはまだまだ全開には程遠く、事実上「富」が許す限りいくらでも増えるのだから、どう考えても「富の増加率」≦「人類の増加率」となる。
この問題の前には、ひとりあたりが必要とする「富」の増大だとか、「富」の偏在だとかは些細な問題にすぎない。本質的に、根源的な問題なのだ。

われわれの肉体が、大気圧と内圧のバランスをとって存在しているように、人類は外部環境からの圧力と、殖えようとする内圧とのバランスをとって存在している。つまり、「貧しさ」とは、人類の増殖欲求と、その外部環境との境界領域のことである。
「貧しさ」が、人類の増加曲線と、富の成長曲線の境界に存在するということは、富の成長率が人類の増加率を上回らないかぎり、それは存在するということになる。
人類が「富の増える限り殖える」という志向を持ち、またそれをいつまでも保てるほどの増加ポテンシャルを持つのであれば、「富が無制限に増加する」という状態にならない限り、富の成長>人類の増加とはなりえない。


ベーシックインカム制度が、究極的には「貧しさを遠ざけよう」ということを目的とするのであれば、ここが最大のネックとなるはずだ。これまで述べたとおり、「人類は増える余地があるときは増える」という性質を持つ限りは、単に再分配のやり方を変えるだけでは、かならず破綻せざるを得ない。貧しさが遠ざかれば人はその数を殖やし、みずから貧しさに近づくのだから。

つまり、ベーシックインカムによって「貧しさ」を遠ざけ、なおかつそれを持続的なものとするなら、ベーシックインカムは「貧しさの代替機能」を持っていなければならない。すなわち、「人の増加速度」を抑えるように働かなければならない。もちろん「貧しさ」によるものよりはマシな方法で、だ。

ということは、ベーシックインカムを受給する資格があるのは、「殖えない」ことに同意した人だけであるべきだ、ということになるのではないだろうか。

もちろん、まったく子供を産まない、という必要はないが、受給希望者は、国による人口調整政策に基づいて、時期および人数についての制約を受け入れることが必要だろう。


というようなことを想像した。
書いていて、そもそもベーシックインカムが議論されてるのって「貧しさを遠ざけたい」からなの?っていうあたりから疑問がわいたので適当にやめる。