ヱヴァ破の感想を書いておく<ネタバレ有>

ネタバレセパレータを兼ねてさいしょに用語注。

下記文中で、以下表記はそれぞれ次の意味。

以下本文

久しぶりに劇場で泣いた。

感動した、というか、まあ涙が出るというのは感情が動いたということなので感動ではあるのだけれども、感動のストーリーだったから泣いたのではなくて、俺はシンジに感謝して泣いた。戻ってきてくれてありがとう。綾波を救ってくれてありがとう、と泣いた。
15年前からわだかまっていたものが解放された気がした。

話の途中らへんで思っていたのだけれども、このヱヴァはまさに「15年前に発表されているべき」エヴァだった。すくなくとも、15年前、Nifty-ServeのSGAINAXで「ナディアの庵野監督」の新作発表を知り、漫画版1巻を読み、TV版1話を見たときの僕が展開されることを期待していた「新世紀エヴァンゲリオン」はこういうようなもので、15年たってついにそれを見ることができている、と思った。
しかし、今これを見ている私たちというのは15年前にあのTV版を見て、12年前にあの夏エヴァを見た私たちであって、また庵野監督はじめ作り手側はそれを意識していないはずはない。今回はじめて「えばんげりおん」というものを観た、という人も当然いるだろうし、そういう人たちにとっては単なる良質な娯楽アニメでもあろうけれども、ほとんどの客層は旧エヴァを見ているはずであり、だからこのヱヴァは、ただの「本来の新世紀エヴァンゲリオン」ではありえない。「新世紀エヴァンゲリオン」の次の作品としての「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でもある。

以下、さらに本格的にネタバレしつつ書く。


エヴァとヱヴァを比較するにあたり、破のストーリー上の重要なポイントは、「参号機事件」の当事者がトウジからアスカになったことである。この変更に伴ってアスカ、シンジの人格表現に大きな影響があった。(どっちが主でどっちが従なのかはわからないがとにかくこれらは相関する)

もちろんプロモーション的な目玉としては「新キャラ登場」なのであろうが、彼女今回はまだ「お客さん」の域を出ておらず、サービスシーンは豊富に提供しているものの主要キャラクターへの内面的影響がそれほど出ていない。

惣流アスカが破滅する原因となった自意識と現実のギャップ、そしてママを含む「私を承認しない世界への憎悪」といった病的な内面部分は今回、式波アスカの登場序盤に強調(アスカ人形が最初から出てくるなど)される代わりに、その治癒されていくさまもまた明示的であった。綾波やシンジを通して彼女の「世界」に対する視点が変わり、肯定的な視点を持ち始めたことがそのまま演出上の「死亡フラグ」へとなっていく。このへんはじつにベタに王道な展開であった。

いっぽうシンジについて。
エヴァのシンジは恐怖と承認欲求、快不快に突き動かされて考えもなしに動き、動かず、そしてミサトさんに救われてすら動かず、救われず、まったく自身の希望とは関係ないやりかたで救われ、ついに救われなかった。ダメなシンジであった。
大してヱヴァのシンジは、自ら決意し、動き、ついにはEVAを覚醒させ、綾波を救うという大活躍をする。

トウジとアスカが置き換わったことが、ストーリー上重要だという理由はここだ。エヴァでのシンジは参号機に誰が乗っているのか、参号機が撃破されるまで知らなかったのに対し、今回は「アスカが乗っている」ことを知っていた。殺されかけながら「(誰か知らない)人を殺すよりはいい」と言うのと「アスカを殺すよりはいい」と言うのとでは、男子中学生が言うものとしては意味がまったく異なって響く。リアリティが違う。顔も見たことのない他人を殺すのは兵士の仕事であり、軍事組織NERVの構成員たるシンジは兵士でもある。しかし、昨夜同じテーブルで飯を食った女の子を殺すというのは兵士から見てさえ狂人の仕事だ。「人」という一般名詞が「アスカ」という固有名詞に入れ替わっただけのこの台詞で、エヴァシンジは「僕は人殺しになるのが怖い」と言ったにすぎなかったが、ヱヴァシンジは「僕は狂ってはいない」と言ったのだ。


また演出上、今作ではダミープラグ起動後にパイロットには映像情報が遮断されていたことを特筆する。エヴァシンジはさんざん参号機解体流血ショーをどアップで見せ続けられ、声も枯れSAN値もほとんどゼロとなった後に相手がクラスメイトだと知らされるというひどい拷問を受けている。ヱヴァシンジはこの拷問からは保護され、健全に怒ることのできる精神を維持している。
ゆえに、エヴァではシンジをドライブしていたのはつねに「恐怖」だったが、ヱヴァではシンジをドライブしているのは「怒り」である。だからゆえに、エヴァのシンジはダメージを受けるほどに立ちすくんで動けなくなり、ついには母たるEVAの暴走を招くのに対して、ヱヴァのシンジは自らの意思で動き、自らの意思でEVAを覚醒させるに至るのである。


さて、そんな新生シンジ君が救った綾波についてもふれておく。
複雑な気持ちである。
僕が15年前に救ってほしかったのは「2人めの綾波」だった。彼女は不器用で無機的な時期が長くて長くて、ついに「碇君とひとつになりたい」と気づいたまさにその瞬間に死んだのだった。その後「3人め」が現れ、人類補完計画が成り、すべての人類がその想う人と溶け合ってLCLとなったときですら、2人めの彼女のたましいは報われることがなかった。それがずっと気になっていた。
ヱヴァの綾波は最初からかなりデレモードの入ったソフトな綾波で、あれが「2人め」なのかというと微妙なところなのだけれども、とにかくエヴァのシナリオ通りであれば喪われる定めであった彼女のたましいをヱヴァのシンジが助け出してくれたことは本当に私にとって救いになった。私が涙したのはそのためである。15年かけて彼女が救われたこと、そして彼女を救えるまでに成長した「シンジ」という名のキャラクターに対して、私は何度でも感謝の涙をささげる。

最後に、もうひとつ印象的だったのは碇ゲンドウだ。
エヴァのゲンドウはSGAINAXでは「外ン道」で通っていたほど、自分のエゴに正直な、子供は作ったけれども父親になれない、なったこともない下衆な男であった。あまりにも下衆なのでついに頼みの妻にも愛想を尽かされ喰われてしまうほどに。
ヱヴァの彼は、ときどき「父の表情」をするようになった。墓参りのシーンでは、いかにもその時間の惜しそうな、義務なので仕方なくそこにいるという表情だった印象があるが、今作では息子とともに色々のことを思いながら所在なげに墓前に立つ「ふつうの墓参り」の姿であった。
また、シンジが「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」と叫んだとき、その勢いに一瞬たじろぐ演出は、エヴァにはなかったような気がした。(あったのかもしれないが)
綾波との食事シーンとその返事ももちろん言うまでもなく、ヱヴァのゲンドウは「エゴの強い自分勝手な男」ではなく「仕事に熱心で不器用な父」であるというシーンが強調されているように思った。

総じる。
シンジはきちんと怒るべきところで怒り行動するようになり、アスカは肉体的にも精神的にもより健康的になり、綾波は「ヒトであることに不器用な存在」から「不器用な人」に近くなり、ついでにトウジケンスケは声がちょっと高くなってより厨房的になりミサっちゃんはより生活が不衛生になり加持は英語がうまくなり、といった感じで、全体的にキャラクターの「病気度」が下がり、より「エスエフロボット漫画活劇」の王道に近づいた娯楽作品となっており、「これが本来の『えばんげりおん』だ」と言われてもおかしくない映像・演出・シナリオのクオリティになっている。

しかしながら、前作をなかったことにして今回のが本物なので前のは忘れてください、なんてもったいないことを庵野秀明ががするはずはないので、エヴァとヱヴァをつなぐ何かが仕込んであると私は信じており、たとえばそれが今回ちょっと出方がありえなすぎて浮いていたカヲル君やらマリ・イラストリアスだったりMk.VIだったりするのであろうよ、と今のところ思っている。いましがた「父になった」と書いたゲンドウも、彼のシナリオのためそれすら演じているのか、と思わせるシーンが用意されていた。しかしながら、私はもう断片情報から正解はああであろこうでもあろと論ずるのには15年前にもう疲れたから、今回は思ったところをこうして書くだけ書いて、あとは忘れて「Q」を待つばかりとする。

以上。