ジェイムズ・ティプトリー・Jr.「輝くもの天より墜ち」読了

僕がまだ高専にいた頃、なんとなく表紙絵に惹かれて読んだ本で泣いた。それが「たったひとつの冴えたやりかた」だった。

以来、ティプトリーは僕の本屋で見たら買う作家リストに入っている。いるのだが、なぜかあまり本屋で見かけないので、今のところ僕の本棚には「愛はさだめ、さだめは死」しか入っていない。「故郷まで10000光年」は図書館で借りて読んだ。

ティプトリーは故人なので、新刊が出るなんて思ってもいなかったが、どういうわけか本屋で平積みになっていたので買ってみたところ、未訳本の初出新刊だった。しかも訳は浅倉久志。略歴見ると浅倉さん1930年生まれってことは77歳?!

本を読むときは、なんとなく残りのページ数を気にしながら読んでしまう。で、「一見山場っぽいけどまだこれだけページあるんだからまだクライマックスではないだろう」とか「これはもうひと波乱あるな」とかついつい推測してしまうものだ。
ところが本作は何か変で、後ろがまだたくさんあるのにいきなり佳境らしきところに踏み込み、そしてそこから緩急どころかさらに加速して状況がぐるぐる変わって、すいっと山場が終わる。すくなくともアクション的な山場は。しかしまだ後ろのページはかなりあるのだ。じゃあこれからどんでん返しがあるのかなと思っていると、どんでん返しはない。そのままゆっくりと事態は収斂し、あらたな事実が示唆され、読者の理解が進むのと合わせるようにゆっくりと幕は降りる。

なんというか、これって女性の快感曲線だよなあ、と気がついた。

ティプトリーの作品は、(もう女性作家だと知ってて読むからかもしれないが)いつもどことなくこういう女性的な特徴を持っていて、また、なぜかつねに「死の香り」がする。その香りはただ、少女マンガのようなロマンチックな雰囲気も、冒険小説の悲壮感もなく、たんにそこに「在り」、ひたすらにうつろに登場人物を呑み込んでいく。ティプトリー作品での「死」は、破滅の意思を持った「死神」ではなく、そこにはそれ自体への否定も肯定もなく、ただ、登場人物たちのそれを否定したいという意思が描かれ、またその無力さも描かれていく。
自分でもどうしてかわからないが、ティプトリー作品のこういうところが僕は好きだ。

話変わってキャラ萌え的には、”スーパーボーイ”プリンス・パヴォで決定で問題なし。こんなに徹底的でいいのか。