オンラインカラオケ活動の話

6年間もブログをほっぽらかしていた。

メモしておきたいことができたのですごーく久しぶりに再開する。

 

かれこれさまざまある間にさまざまのことが起きたのだが、この間ずっと続いている趣味がカラオケで歌を歌うことであった。

 

仲間内で定期的にカラオケ会をやることで充足していたのであるが、コロナによってカラオケ会はできなくなり、かわりに音楽SNSをやるようになった。

 

もともと、カラオケがうまくなりたいという理由で、カラオケ屋さんの機器とボイスレコーダーをつなぐためにアナログミキサーを買ってあったりしてたので、これにマイクとiPhoneアダプタをつければ録音ができるんじゃね、ということで始めたのがこの度のもろもろのはじまりであったのだ。

 

 

ゲーミングPC浦島太郎のその後

前回もにょもにょと悩んで結局何も買わぬまま2015年になった。

相変わらずゲームは買い続けているが、たいがいリアルタイム性の重要でないゲームばかりやっていたので、それほど困ることはなかったが、このたびCities:Skylinesを買ったところ序盤からカックカクであり、調べてみると1スロット仕様のGTX750Tiというのがあったので買ってきた。

必要電力は9600GT GreenEditionとほとんど違いなく、性能は3倍強である。
ELSAのとGALAXY玄人志向のがあり、ELSAのほうがちょうど2万円で買えた。

心配だったのは電源で、うちの電源は定格300Wなのだがシステム要件としては400Wと書いてある。

ただ、実測している人のブログでは9600GTとほとんど消費電力は変わらないようだったので、まあ大丈夫でないかな、とそのまま挿してみたところ、動いた。

おかげでCitiesもサクサク快適に動くようになったし、良い買い物だった。

ゲーミングPC浦島太郎 2013

前回のゲーム用PC更新がたしか2009年末だったように思うので、ふと気がつけば3年が経過している。
(はてなダイアリー自体も2年以上放置していた)

3年ぶりに自作PC関連情報を仕入れたメモ。

現在のゲーム用マシンはshuttleのsn78sh7ベアボーンキットで組んだ。
もともとそんなに動きの激しいゲームはしない、RTS中心の嗜好だし、そもそも週末の気が向いたときしかゲームしないので、性能よりはコストパフォーマンスと静音性そして低消費電力を追い求めて現在のマシンを組んだ。
それまでAGPだったのをPCIe16xに積み替えて、これでしばらく行けるだろうと思ったものだが(実際3年間は問題なく過ごせたわけだが)、実際更新をかけるとなるとストレージと周辺機器以外は全交換となりそうだ。

当時の構成をどこかに記録したような気もするんだが見つからなかったので改めて書くと、上記べアボーンに4GBのDDR2-800メモリと、CPUにAthron II 4x 605e 2.3GHz、グラフィックにELSAのGeForce 9600GT GreenEditionだ。ストレージはSSD+HDDだが更新しないので詳細は省く。

GPUについて現状を調べると、意外なことに9600GTGEの後継機種が存在していない。消費電力60w未満で実売1万円で、ガチFPSは無理でも3DのRTSをやる分には問題ない、というような用途のもの。性能的にはGTX650というのがそこにあたるようだが、1スロットカードが出ていない。今後出そうな雰囲気はあるが、まだない。65wならシングルでもよさそうなのになあ。
カタログ的にはVRAMがGDDR5で2GBで、とメモリ周りの速度改善が目立つが、9600GTや9800GTと比較してベンチマークのスコアが劇的に伸びるかというとそういうものでもないようだ。DirectX11世代、というのはあるけれど、ベンチマークで倍にはならない。2万円出してGTX660とかのミッドレンジにすると時間経過に相応の進化を遂げているように思うが、消費電力140〜200、必要電源容量が500w超ではシステムがでかくなりすぎる。

前回更新時のころはグラボさえ良ければCPUはそんなに大勢に影響はなくて、CPUのアップグレードパスはあまり考えていなかったが、最近はわりとCPUボトルネックになるケースもあるので、次はちょっとマシなやつにしたい。i7のLGA1155あたりだろう。だいたい2万5000円くらい。
メモリも現在はDDR3がメインであるようで、バスクロックは1333MHzや1600MHz、Windowsが64bitになって4GB天井がなくなり、16GBが1万円未満で積める。このあたりが近代化の見所のようだ。

べアボーンの悲しさではあるが、CPUとメモリの世代を更新するためにマザーを交換するにはケースごと交換となる。インターネットPCとしては十二分の性能を持ったままだから、誰かにあげればまだ余生を過ごせるだろう。

必要予算的には、マザーが8000円、CPUに25000円、メモリに8000円、グラボに1万3000円、ケースに1万円強といったところを見込んで5万5000円〜6万円というところだ。ケースがちゃんとしたのにしたらもうちょっとかかるかもしれない。

あくまで現在のマザーとケースを生かす前提でどこまでいけるかを考えてみると、AM2+ソケットなのでAM3のCPUがそのまま使えるようだ。とするとAM3でTDP95w、6コアのPhenomII x6 1055Tがいけるのか、性能倍くらいになるなと思ったが、ShuttleのBIOSだと対応リストにあるのはPhenomII x4 965まで。これだとベンチマーク的には1.5倍くらいになるが中古で9000円。消費電力は一気に3倍になる。メモリをDDR2-1066x4GB(中古)への換装4000円、グラボはGTX650の1スロットか、スロットの背側に1スロット占有するタイプが見つかれば載せ替えといったところで、3万円弱くらいかな。総予算はコンパクトに済むが効果のほどは微妙そう。

ここまで書く内容を調べるために今のマシンを開けたりなんだりしていたら、やっぱりバランスよく組んであるなあと嬉しくなってきたのでやっぱり当面組み替えはしないかもしれない。

「まおゆう」を読んだ

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」を読んだ。

最初の2スレくらいは読んでいて悲しかった。「魔王モノ」も「ファンタジー世界に現代的価値観(や政治学や経済学や君主論)を持っていって語らせる」というテーマもどっちも個人的にツボであって、なのにこんなにテキトーな会話文体でへらへら書き飛ばしてしまうのは勿体ない、と思った。

そもそもの大問題として「魔王はなぜ勇者を欲するのか」の理由付けが希薄で、なおかつ「勇者が魔王に惹かれるのは魔王が勇者を熱烈に口説くため」であるという理由付けがされているために、「タイトルからして魔王が勇者を口説き落とさねば始まらぬ」という前提を満たすためになんとか頑張っている感が否めなかった。

しかしながら、3スレめを超えたあたりから10スレめあたりまではドラマ展開的に息継ぐ暇がなく、一気にに読まされてしまった。ここまでの話の組み立ては端的に言って素晴らしいの一語に尽きる。
ネットの感想を読むに後半ほど素晴らしい、というような意見も見たが、個人的感慨としては中盤が一番輝いている。なにが良いかというと、劇中の君主たちが述べる演説と、奏楽子弟の奏でる詩が良い。単純に散文としてそれらは良かった。ドラマ的には火竜公女の身の振り方が大変気に入った。後半はむしろ話をクローズするための儀式的なものに見えた。

まあ、感想を述べていても仕様がない。
私としては、「これが何であるか」を述べたい。

ツイッターもでつぶやいたのだが、15年前にこのプロットで、なおかつきちんと小説の体を成していたなら、富士見や電撃といったライトノベルレーベルの新人賞で入賞は固かったのは間違いない。
個人的には「猫目狩り」とか「7人の武器屋」に賞をやるくらいだったら喜んでこっちに賞を授けたい。

しかしながら、実際問題としてこれは小説という体裁では世に出なかったので、その仮定にはさほど意味はない。これがこのまま髪に印刷されて500円で買わされたら私は怒る。私がこれによって一番つよく考えさせられたことは、「表現とは、表現を世に出すとはどういうことだろうか」ということだった。

この話の中で、すべての登場人物には固有名詞が与えられていない。まあ、実際には「一般名詞の固有名詞的用法」によって「名前」が与えられているけれど、たとえば「辣腕会計」にはスティーブとかジョンストンとかの名前はついていない。これに登場するすべてのキャラクターの名前は名前であると同時にその立ち位置や役職の表現系であり、これを象徴とするように、すべての登場要素は高度に記号化されている。これが、「まおゆう」の語り方の特徴であった。

おそらく1〜2スレッドめあたりでは自覚無く使用されていた簡易な

話者「会話内容」

の連続で表現される文章、いわゆる「地の文」がないかたちでの表現はスレッドを重ねるにつれてて洗練されてゆき、序盤では

メイド妹 じわぁ

であるとか、中盤以降では

火竜大公「これで肩の荷が下りますかな」ぼうっ

といったような、擬態語との不思議な組み合わせによる表現に昇華されていった。
(火竜大公の「ぼうっ」はそれを説明する文は全くないのに、「竜族が鼻から火を噴いている」を読み取ることのできる素晴らしい表現だった)

これは、@machiko22氏のTogetter - 「まおゆう」って何が面白いの?の中の「この文体ってシミュゲっていうよりギャルゲのパロディなのね。」という指摘がなされているように、この表現法はこれによって初めて世に出たというより、たしかにビジュアル的制約のあるコンピュータゲームにおいてはこの手の表現方法はかねてから目にするものであったが、「ゲーム内文章」ではなく最初から最後まで散文のみで表現されるメディアの中においての表現としては、やはり画期的なものであったような気がする。

当初、このような表現が採用されていたのは、気楽に文章を書くための成り行きだったのかもしれないが、中盤以降、筆者が文体を維持するために意図的に「地の文」を排していたことについて疑う余地はない。結果、これは全編にわたり、きわめて記号化、抽象化度の高いストーリーテリングがなされており、結果として文章あたりの情報量がきわめて高くなって、読者に濃密な読書体験を与えていた。
実際のところ、文章あたりの情報量は実際には多くないが、「記号化のキーワード」を散りばめることで、読者が脳内に勝手に展開する情報量はいわゆる「まっとうな小説」に比べて決して遜色のないものであったように感じた。

だいぶトイレに行きたくなってきたので強引に纏める。

  1. 一般名詞の固有名詞化によって高度に記号化され、なおかつ多くを「借景」に依るキャラクターたち
  2. 「地の文」を極力排した、発話を主体としたストーリーテリング
  3. もとが2chのVIPスレへの投稿であるという共有性の高さ

この3点が「まおゆう」の特徴であると思う。
(経済学やら自由がどうとかいうのはこれの特徴ではない。ドラマの特徴付けギミックのひとつにすぎない)

難しいのは、じゃあこれに地の文をおぎなって「小説の体裁」にしたらそれは価値あるものになるか、ということである。コミカライズは比較的容易である。すでにアニメイテッドの作品も存在するようだが、表現の転化としてはそれは比較的創造しやすい方法である。

これが「荒削り」「未完成」だからこそ、この「プロット」を補って派生していく現代的表現があるのではないかという予感がするが、今の自分にはその姿は見えない。

ツイッターについて

最近、何かを出力したいという欲求はほとんどツイッターで済ましてしまっており、さすが「便所2.0」であるなと思う。

というか、いまMixiに久しぶりにログインしてみたところ、画面がかなり変わっていたのはもちろん、最盛期はべつにこの人たち主流じゃなかったよな的かたがたによってタイムライン(と言ってしまうくらいTwitter脳になってしまったが要は新着日記)が占められていてなるほどそういう時代かと思った。

ヱヴァ破の感想を書いておく<ネタバレ有>

ネタバレセパレータを兼ねてさいしょに用語注。

下記文中で、以下表記はそれぞれ次の意味。

以下本文

久しぶりに劇場で泣いた。

感動した、というか、まあ涙が出るというのは感情が動いたということなので感動ではあるのだけれども、感動のストーリーだったから泣いたのではなくて、俺はシンジに感謝して泣いた。戻ってきてくれてありがとう。綾波を救ってくれてありがとう、と泣いた。
15年前からわだかまっていたものが解放された気がした。

話の途中らへんで思っていたのだけれども、このヱヴァはまさに「15年前に発表されているべき」エヴァだった。すくなくとも、15年前、Nifty-ServeのSGAINAXで「ナディアの庵野監督」の新作発表を知り、漫画版1巻を読み、TV版1話を見たときの僕が展開されることを期待していた「新世紀エヴァンゲリオン」はこういうようなもので、15年たってついにそれを見ることができている、と思った。
しかし、今これを見ている私たちというのは15年前にあのTV版を見て、12年前にあの夏エヴァを見た私たちであって、また庵野監督はじめ作り手側はそれを意識していないはずはない。今回はじめて「えばんげりおん」というものを観た、という人も当然いるだろうし、そういう人たちにとっては単なる良質な娯楽アニメでもあろうけれども、ほとんどの客層は旧エヴァを見ているはずであり、だからこのヱヴァは、ただの「本来の新世紀エヴァンゲリオン」ではありえない。「新世紀エヴァンゲリオン」の次の作品としての「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でもある。

以下、さらに本格的にネタバレしつつ書く。


エヴァとヱヴァを比較するにあたり、破のストーリー上の重要なポイントは、「参号機事件」の当事者がトウジからアスカになったことである。この変更に伴ってアスカ、シンジの人格表現に大きな影響があった。(どっちが主でどっちが従なのかはわからないがとにかくこれらは相関する)

もちろんプロモーション的な目玉としては「新キャラ登場」なのであろうが、彼女今回はまだ「お客さん」の域を出ておらず、サービスシーンは豊富に提供しているものの主要キャラクターへの内面的影響がそれほど出ていない。

惣流アスカが破滅する原因となった自意識と現実のギャップ、そしてママを含む「私を承認しない世界への憎悪」といった病的な内面部分は今回、式波アスカの登場序盤に強調(アスカ人形が最初から出てくるなど)される代わりに、その治癒されていくさまもまた明示的であった。綾波やシンジを通して彼女の「世界」に対する視点が変わり、肯定的な視点を持ち始めたことがそのまま演出上の「死亡フラグ」へとなっていく。このへんはじつにベタに王道な展開であった。

いっぽうシンジについて。
エヴァのシンジは恐怖と承認欲求、快不快に突き動かされて考えもなしに動き、動かず、そしてミサトさんに救われてすら動かず、救われず、まったく自身の希望とは関係ないやりかたで救われ、ついに救われなかった。ダメなシンジであった。
大してヱヴァのシンジは、自ら決意し、動き、ついにはEVAを覚醒させ、綾波を救うという大活躍をする。

トウジとアスカが置き換わったことが、ストーリー上重要だという理由はここだ。エヴァでのシンジは参号機に誰が乗っているのか、参号機が撃破されるまで知らなかったのに対し、今回は「アスカが乗っている」ことを知っていた。殺されかけながら「(誰か知らない)人を殺すよりはいい」と言うのと「アスカを殺すよりはいい」と言うのとでは、男子中学生が言うものとしては意味がまったく異なって響く。リアリティが違う。顔も見たことのない他人を殺すのは兵士の仕事であり、軍事組織NERVの構成員たるシンジは兵士でもある。しかし、昨夜同じテーブルで飯を食った女の子を殺すというのは兵士から見てさえ狂人の仕事だ。「人」という一般名詞が「アスカ」という固有名詞に入れ替わっただけのこの台詞で、エヴァシンジは「僕は人殺しになるのが怖い」と言ったにすぎなかったが、ヱヴァシンジは「僕は狂ってはいない」と言ったのだ。


また演出上、今作ではダミープラグ起動後にパイロットには映像情報が遮断されていたことを特筆する。エヴァシンジはさんざん参号機解体流血ショーをどアップで見せ続けられ、声も枯れSAN値もほとんどゼロとなった後に相手がクラスメイトだと知らされるというひどい拷問を受けている。ヱヴァシンジはこの拷問からは保護され、健全に怒ることのできる精神を維持している。
ゆえに、エヴァではシンジをドライブしていたのはつねに「恐怖」だったが、ヱヴァではシンジをドライブしているのは「怒り」である。だからゆえに、エヴァのシンジはダメージを受けるほどに立ちすくんで動けなくなり、ついには母たるEVAの暴走を招くのに対して、ヱヴァのシンジは自らの意思で動き、自らの意思でEVAを覚醒させるに至るのである。


さて、そんな新生シンジ君が救った綾波についてもふれておく。
複雑な気持ちである。
僕が15年前に救ってほしかったのは「2人めの綾波」だった。彼女は不器用で無機的な時期が長くて長くて、ついに「碇君とひとつになりたい」と気づいたまさにその瞬間に死んだのだった。その後「3人め」が現れ、人類補完計画が成り、すべての人類がその想う人と溶け合ってLCLとなったときですら、2人めの彼女のたましいは報われることがなかった。それがずっと気になっていた。
ヱヴァの綾波は最初からかなりデレモードの入ったソフトな綾波で、あれが「2人め」なのかというと微妙なところなのだけれども、とにかくエヴァのシナリオ通りであれば喪われる定めであった彼女のたましいをヱヴァのシンジが助け出してくれたことは本当に私にとって救いになった。私が涙したのはそのためである。15年かけて彼女が救われたこと、そして彼女を救えるまでに成長した「シンジ」という名のキャラクターに対して、私は何度でも感謝の涙をささげる。

最後に、もうひとつ印象的だったのは碇ゲンドウだ。
エヴァのゲンドウはSGAINAXでは「外ン道」で通っていたほど、自分のエゴに正直な、子供は作ったけれども父親になれない、なったこともない下衆な男であった。あまりにも下衆なのでついに頼みの妻にも愛想を尽かされ喰われてしまうほどに。
ヱヴァの彼は、ときどき「父の表情」をするようになった。墓参りのシーンでは、いかにもその時間の惜しそうな、義務なので仕方なくそこにいるという表情だった印象があるが、今作では息子とともに色々のことを思いながら所在なげに墓前に立つ「ふつうの墓参り」の姿であった。
また、シンジが「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」と叫んだとき、その勢いに一瞬たじろぐ演出は、エヴァにはなかったような気がした。(あったのかもしれないが)
綾波との食事シーンとその返事ももちろん言うまでもなく、ヱヴァのゲンドウは「エゴの強い自分勝手な男」ではなく「仕事に熱心で不器用な父」であるというシーンが強調されているように思った。

総じる。
シンジはきちんと怒るべきところで怒り行動するようになり、アスカは肉体的にも精神的にもより健康的になり、綾波は「ヒトであることに不器用な存在」から「不器用な人」に近くなり、ついでにトウジケンスケは声がちょっと高くなってより厨房的になりミサっちゃんはより生活が不衛生になり加持は英語がうまくなり、といった感じで、全体的にキャラクターの「病気度」が下がり、より「エスエフロボット漫画活劇」の王道に近づいた娯楽作品となっており、「これが本来の『えばんげりおん』だ」と言われてもおかしくない映像・演出・シナリオのクオリティになっている。

しかしながら、前作をなかったことにして今回のが本物なので前のは忘れてください、なんてもったいないことを庵野秀明ががするはずはないので、エヴァとヱヴァをつなぐ何かが仕込んであると私は信じており、たとえばそれが今回ちょっと出方がありえなすぎて浮いていたカヲル君やらマリ・イラストリアスだったりMk.VIだったりするのであろうよ、と今のところ思っている。いましがた「父になった」と書いたゲンドウも、彼のシナリオのためそれすら演じているのか、と思わせるシーンが用意されていた。しかしながら、私はもう断片情報から正解はああであろこうでもあろと論ずるのには15年前にもう疲れたから、今回は思ったところをこうして書くだけ書いて、あとは忘れて「Q」を待つばかりとする。

以上。

firefox3.5で使えなくなったアドオンをとりあえず動かす方法

FF3.5入れたらAll-in-one-Gesturesが使えなくて困った。
前にも似たようなことがあったので試したら動くようになったので方法を書いとく。

  1. C:\Documents and Settings\(ユーザ名)\Application Data\Mozilla\Firefox\Profiles\(ランダム数字).default\extensions\(ランダム数字)\chrome¥allinonegest.jar を探す
    • extensions内はフォルダの更新日付=インストール日付なので勘で探す。というかAiOGは初日に入れるだろ?
  2. そのいっこ上のフォルダにinstall.rdfというファイル(XML)があるのでメモ帳で開ける
  3. その中の

3.0.*

 となってるところを

3.5.*

 に直す。

あとは保存してFireFox再起動。
あくまでバージョンチェッカをごまかすだけなので、「たまたま動いている」だけだということを忘れずに。

FireGesturesっていうのもいいらしい。
でも俺もう対応しちゃったのでしばらくこれで。