好きを仕事にしないとしょうがない

出典は忘れたが、美輪明宏はかつて「給料とはがまん料のこと」と言ったそうだ。
一方、「ユダヤ人大富豪の教え」に出てくるユダヤ人大富豪ことゲラー氏は、こう言っている。「多くの人々が金持ちになれない理由は、給料を慰謝料と勘違いしているからだ」と。

もちろんどんないい仕事だって、いやなことはあろうから、それを耐える術は持っていなければならないけれども。

ただ、「基本的にはこの仕事が好き」と言える状況でなければ、そもそもその耐える意味すら見出すことができなくなるのではあろう。

俺は今の会社があまり好きではないけれど、好きなところがないわけではないし、何よりいいところも悪いところもそこそこ知っているということ自体がひとつのアドバンテージであるから、まあ相対的には満足できる状況ではあろうと思っている。

ただ、一緒に仕事をしている人たちを見ていて、あるいは話をしてみて思うのは、つまりその人たちはあまり自分の仕事が好きでないということだ。あるいは、まるっきり嫌いではないんだけれども、今の仕事のどういうところが好きかをちゃんと自覚していなかったりすることが多い。
なにが快でなにが不快かがわからなければ、快を最大化する努力なんかしようがないわけで、だったら努力なんかしてみようとも思わんのだろうなあ、と思ったりしている。

今の仕事が嫌いな理由を挙げることはいくらだってできる。なぜなら不快は微量であっても自覚できるからだ。快は、よほど局所的で目立つ目立つ快でなければ、日常と見分けが付かない。すくなくともそれが失われるまでは、自分がそれを快と感じていたことにすらなかなか気づかない。自分が何のどういうところが好きか、というのは、しっかり頭を使って分析しなければわからないものだ。

だから、人間が本当にやる価値があることは頭を使うことだという前提に立てば、不快の原因ではなくて快の原因を見つけることのほうに価値がある。


さて、ここまでは「つねひごろ思っていること」であって、以下が今日の発見。

おなじ快でも、仕事をするに適する快と、そうでない快がある。(言葉にしてしまうと自明だな)

仕事に適する快とは、自分が何かすることによって、それまでになかった何かが起きることによって感じる快だ。

いっぽう仕事を選ぶときに(かならずしも)適さない快とは、自分が何もしなくてもそこに存在して、それに触れるだけで得られる快だ。

だからたとえば、「音楽が好き(自分の快に関するキーワードは音楽である)」ということだけで、音楽関連の仕事につくべき、とはならない。快が、物理学的用語に近い意味での「仕事」に紐づいている必要がある。
自分がなにかしなければその快(を発生させる源)はそもそもこの世に存在しない、ということを前提にしなければ、人間はそのなにかを続けるインセンティブを持ち得ない。

「自分探し」は必要だが、それが「自分は何を快と感ずるか」だけを探そうとしていたのではだめだ。
「自分はなにを生み出した、成しえたときに快を感ずるか」「自分が生み出しうる快とはなにか」を探すことこそが「自分探し」である。


まだ見つけていない人も心配する必要はない。
「自分」を見つけたときは、ほんとうに、泣くほどうれしいので、すぐにそれとわかる。
(きちんとそれを見つけようとしてさえいれば)