うまく働けてないと自分でも思う。

なぜかわからんけど、「働かずに不安定な生活をして下流に押し込まれてしまう」か、「働きすぎで健全な人生を送れなくなっている」かのどちらかになってしまう気がしていて、どうすれば間をとれるのかをここ数ヶ月ずっと考えている。

1年ちょっと前、まだ上記の問題にちゃんと直面する前に「金持ち父さん貧乏父さん」を読んだときに、目から鱗が落ちた感じがして、つまり「経済的自由」というのは上記の(まだ自覚的でなかったが今考えれば無意識に意識はしていた)問題への解だと思われた。
30代くらいまでは多少無理しても頑張って、「経済的基盤」を作れば、あとは自分の信じるやり方で生きていくことができる、と、そのときは思った。で、それをなんとか実現しようとしばらくやってきた。

いろいろ幸運があって、今の自分の仕事では自分の能力を使いきれていないなあ、という状態はその後脱することができて、ここ最近はちょっと働きすぎ感のあるほうにシフトしてきた。ハードな筋トレだと思えばまだ耐えられる程度の負荷ではあるけど、胃は壊した。収入はかなり安定したけど、健康とか家族(になるべき人)との時間とかはかなり喪失したように思う。「おとなの人」に言わせれば「それはそういうもの」なのかもしれないが、俺からすればとても「うまく働けている」状態ではないと思われて、それに気づいたために最初の疑問に直面している、といった次第。

「経済的自由」はとても甘い響きで、シンプルで明快で、そして今でも目指すべき理想ではあるけれども、どうやら日本においてはキヨサキの住む国よりもそれはさらに得にくいもののようだと(ようやく)思えてきた。だから、「きっとそれは得られるに違いない」という期待だけに全てをベットするわけにはいかない。
"池田信夫の論(のfinalvent氏による解釈)"によれば、「資本」というのは希少性を持つ既得権である(ITがそれを覆すかどうかは、今はまだそれほど定かではないと俺には思われる)。既得権というのは得にくいから権益足りうるのだから、とくに根拠もなく自分が既得権を得られることを前提に人生を設計するなんて、いくら俺でもそこまで能天気ではない。もちろん根拠作りができるように努力してはいるけれど、(キヨサキのように)それが成功することに全てをベットして生きていくわけにはいかない。

若者はなぜうまく働けないのか? - 内田樹の研究室

内田先生によると、「社会に出て働いたら、相応の報酬が自分宛に名指しで返ってくることを若者は期待しているが、社会はそんなふうにできていない」という指摘。それはそういうものとして受け取らないと齟齬を生じるであろうと。
そして「いざ実際に報酬が名指しで返ってくる、という仕組みが実現可能な仕事というのは、個人の名前で商売するクリエーターやアーティストででもなければ、高度にモジュール化された仕事であって、それはつまりは均質化された単純労働でしかない」という。つまり、「紡績機のスピード」というリミッタすら外れた女工哀史がそこには存在すると。

それでは俺が過労死するのは俺のせいなのか : こどものおいしゃさん日記 うしろすがたのしぐれてゆくか

これに対して「じゃあ寝てる奴に俺の稼いだ金が投げ渡されるのが社会のルールなのか?」というこどものおいしゃさんの反論があった。

俺は「それが社会のルールなんだろう」と思う。なぜなら俺は俺が稼ぐほどには貰っていないし、俺の周りの稼いでいる人もそうだし、俺の周りのあんまり稼いでない奴は明らかに稼いでいないのに貰うものは貰っているからだ。
この辺の話は突っ込んでいくと今年の頭らへんに盛り上がった"生産性論争"になっていくんだろうが、その構造自体を否定することには俺は意味を感じられない。

そのルールは変えられるべきかもしれないが、「俺じゃない誰かがそれを変えてくれるはずなのにそれを変えてくれないから俺は俺の思うように生きられない」なんて俺は死んでも言いたくないので、だからそのルールが変えられなかったり、変えられないルールの中で思うように成果を出せないのは自分のせいだと俺は思うしかない。なぜならそのルールはインチキかもしれないが、気まぐれに変わったりもしないからだ。その風が吹く場所では、つねにそういう風が吹いている。なら、対処もできるはずだ。
幸いにして俺は「それは自分のせい」と思うと逆にエネルギーが出る精神構造になっているのでこれはポジティブな要素なんだが、そのまま素直にへこんでしまう人も多かろうとは思うけどな。そういう人はつらかろうと思う。


どうやるとまずく働くことになってしまうか、はわかっても、どうやるとうまく働けるのか、は、まだわからない。